スイートピーの花
4月9日――
「ところでさ」
レフトールは、蹴られて血を流した頭をテーブルの上に置いてあったタオルで押さえつけながら、リゲルの方を振り返った。
リゲルはソファーに座ったまま、先程の格闘を冷めた目つきで見物していた。しかし、その隣にはミーシャが座っている。
「リゲルお前、クラス委員の女と付き合ってなかったっけ?」
レフトールの何気ない質問に、部室の一部が急に冷え込んだような錯覚にとらわれた。
リゲルの目つきは表面上変わったようには見えない。しかしよく見れば、その頬に一筋の汗が流れたのを確認できただろう。
そして、一瞬だけロザリーンの演奏するピアノの音が乱れた。
「リゲルおにーやん、どういうことなの? クラス委員ってなぁに?」
ミーシャの問いにリゲルは答えず、チラッとロザリーンの方を見た。しかしロザリーンは、みんなの方には目を向けず、ピアノの演奏に集中しているように見えた。
「クラス委員はロザリーンだろ、あそこでピアノを弾いている。俺あいつ苦手~」
レフトールはリゲルの代わりにおどけて答えた。確かに素行不良のレフトールは、ロザリーンとは相性が悪そうだ。
昨日の事もあり、ミーシャはロザリーンを見て何かを察したようだ。
「リゲルおにーやん……」
ミーシャの声は、かすかに震えていた。彼女は必死に何かを言おうとしたが、言葉が出ないようだ。
リゲルの表情は、表面上はいつも通りに冷静で、感情を表に出さないように見える。だが、その沈黙が彼女には答え以上に響いたのだ。
「ミーシャ……」
リゲルが低い声で言ったが、彼女はそれを聞くことができなかった。
次の瞬間、ミーシャはソファーから立ち上がり、部室を飛び出していった。彼女の小さな体が走り去る後ろ姿を見て、リゲルは何かを言おうと口を開いたが、すでに遅かった。
ピアノの音色もいつの間にか無くなっていて、部室には静寂が残った。
その中でリゲルは、ただ苦い顔をしているだけだった。
ロザリーンもまた、複雑な表情で彼を見つめていたが、言葉を発することができなかった。
「およよ? なんだぁ?」
レフトールは、自分の何気ない疑問が、場の空気をすっかり変えてしまったことに、戸惑いの様子を浮かべていた。
「リゲル、追わなくてもいいのか?」
唯一事情を知っているのがラムリーザだ。ロザリーンの様子を気にしつつも、ミーシャも放っておけない。
リゲルはラムリーザの言葉にハッと我に返り、ミーシャの後を追って部室を飛び出すのだった。
その瞬間、ロザリーンは思わず立ち上がっていた。
リゲルが去った後の空っぽな空間を見つめながら、心の中でわずかに動揺が広がるのを感じていた。しかし、彼女はすぐに表情を引き締め、冷静さを保とうとした。
「ロザリーン、大丈夫ですか?」
声をかけたのはユコだが、その声には明らかに戸惑いが混じっていた。
ロザリーンはその言葉に反応して微笑みを作ろうとしたが、うまくいかなかったようだ。
彼女は深く息を吸い込み、気丈に振る舞おうとした。
しかし「大丈夫よ」と、静かな声で答えたその言葉は、どこか虚ろに響いたように聞こえた。
ジャンも昨日は三人の関係を茶化していたが、こうして修羅場を実際に迎えてみると、下手なことは言えないと判断し、口をつぐんでいる。
ソニアとリリスは微妙な空気に口を尖らせ、ソフィリータは余計なことを言ったレフトールを睨みつけつつ、親友を心配していた。
一方レフトールは、めんどくさそうにして、ドラムセットに座った。
それらの様子を見たラムリーザは、黙っているわけにはいかないと考えて、ロザリーンの方へと歩み寄った。
そこで、リゲルから昨年聞いた話をした。彼には二年前まで付き合っていた人が居たこと。それがミーシャなのだということを。
「そうだったのですか」
ロザリーンは何か腑に落ちるといった感じで返事をした。リゲルの後ろに見えるような気がしたもの、これまではわずかな違和感しか感じていなかったが、ラムリーザの話が本当ならば、色々と納得がいく。
「でも、何故話してくれなかったのでしょう?」
「リゲルはミーシャの事は忘れて、君と一からやり直すつもりだったんだ。だから、過去は過去と割り切っていたんだよ」
これはラムリーザもリゲルから聞いた話ではない。ただ、ラムリーザが推し進めたことだし、リゲルもそう考えていると思っていた。
ロザリーンは部室の窓際に移動して、リゲルとミーシャが消えていった方向を見つめながら、心の中で静かに決意を固めた。
リゲルが軽音楽部の部室がある音楽棟から飛び出した時、校庭を駆け抜けるミーシャの姿が視界に小さく映った。
彼女の背中は小柄で、今にも消えてしまいそうなほど頼りない。それを見たリゲルは、すぐにその後を追いかけた。
「ミーシャ!」
リゲルは呼びかけるが、彼女は振り返ることなく、さらに速く走り去る。彼女の肩がかすかに震えているのが見えた。
やっとのことでリゲルがミーシャの手首を掴んだ瞬間、彼女は反射的に振り払おうとした。
だがリゲルは力強く握り、二人は校庭の一角で向かい合った。
リゲルは深く息をつきながらミーシャの顔を覗き込んだ。
ミーシャの目は涙であふれ、その瞳にリゲルの姿が映っていた。彼女の表情は、悲しみと混乱でいっぱいだった。
リゲルは一瞬その姿に心を痛めたが、自分の言うべきことはわかっていた。
「ミーシャ、話をしよう」
リゲルは彼女の手をしっかりと握りながら、静かに言った。
もしもこの場にラムリーザたちが居れば、彼らはリゲルの声に、いつも以上の優しさが含まれていることに気がついただろう。
それはまるで、彼女の痛みを理解しようとしていることが、その声色から伝わってくるようだ。
しかしミーシャは、彼の顔を見つめたまま、首を横に振った。
涙が頬を伝い、震える声で「どうして……どうして……?」と呟いた。
「ミーシャ……」
リゲルは静かに彼女の名を呼び、彼女を落ち着かせようとした。
「話を聞いてほしい。君に言わなければならないことがある」
ミーシャは涙で滲む視界の中でリゲルの顔を見つめた。彼女にとって懐かしい、そして見慣れたアイスブルーの瞳の中に、記憶の中とは違う感情が宿っているのを感じた。
彼女はかすかに頷くと、リゲルの言葉を待った。
リゲルはミーシャの涙を見つめながら、ようやく心を決めた。彼女を傷つけることになると分かっていても、どうしても伝えなければならないことがあるのだ。
彼はゆっくりと息を吸い込み、静かな声で切り出した。
「ミーシャ、君には本当に感謝してる。でも……ロザリーンという、大切な人が現れたんだ」
いつも冷静にラムリーザの相談に乗ったり、ソニアを手玉に取って遊ぶ時とは違い、一言一言を、言葉を選ぶように時間をかけて述べた。
その言葉を聞いた瞬間、ミーシャの瞳がさらに大きく見開かれ、次の瞬間涙が溢れ出した。
彼女は何かを言おうとしたが、声が震えて言葉にならなかった。
少し間を置き、やっとのことで「どうして…」と声を絞り出すのが精一杯だった。
しかし一言述べると、後はせきを切ったように感情が表に噴き出した。
「リゲルおにーやん、ミーシャ……ずっと、ずっと再会を夢見てたのに……。一年間、おにーやんと再び会える日を心の支えにして、耐えてきたのに……。絶対に再会しようねって、あの時約束したのに! 逢わせ眼鏡は嘘だったの?!」
ミーシャの言葉に、リゲルの胸は痛んだ。彼女の涙が彼の心に重く響き、彼女を傷つけたことに対する深い後悔が押し寄せてきた。
逢わせ眼鏡――。二人が再会を約束して、一つの眼鏡を二つに分けたもの。
一つはミーシャの首飾りに、もう一つはリゲルのモノクルに。
リゲルの脳裏に、あの日二人が青空の下で約束した言葉が蘇った。ロザリーンと交際を始めてしばらくするまで、一日も忘れもしなかった言葉が。
それでも、リゲルは目を閉じて彼女の言葉を受け止めた後、再び目を開け彼女の手をしっかりと握り直した。
「ミーシャ、本当にすまない。君を待たせたこと、そして期待に応えられなかったことを、心の底から謝りたい。君がどれだけこの一年間耐えてきたか、俺には痛いほど分かる。それでも……、今はロザリーンが俺のそばにいるんだ」
ミーシャはリゲルの言葉を聞きながら、涙を拭うこともできず、ただその場に立ち尽くしていた。リゲルの手の温かさが、彼の言葉の重みをさらに強く感じさせていた。
「いままで、ありがとう」
リゲルは静かに言った。その言葉には、彼女との過去に対する感謝と、これから先に向けた思いが込められていた。
ミーシャはしばらく何も言わず、リゲルの手を握り返していたが、やがて静かにその手を離した。
彼女は涙を拭きながら、小さく頷いた。
「分かったよ、リゲルおにーやん、話してくれてありがとう」
その声はかすかに震えていたが、どうにか落ち着きを取り戻していた。
「でも、もっと早く聞きたかったな。驚かしてやろうと思ったミーシャが馬鹿みたい」
「すまなかった」
何か吹っ切れたようなミーシャの物言いだが、リゲルは短く謝るしかできなかった。
ミーシャはこれまでにリゲルに対して、色々と連絡を取っていた。
しかしラムリーザの参謀長と持ち上げられた者ですら、一人の少女の女心までは測れなかったようだ。
「ミーシャ、一人で帰るね」
ミーシャはそう告げると、リゲルからゆっくりと離れていった。彼女の背中は小柄で、その姿はどこか寂しげだったが、リゲルには追いかけていた時の弱さは感じられなかった。
リゲルはその後ろ姿を見送りながら、心の中で再び「すまぬ」と呟いた。
彼の瞳には、ミーシャとの思い出が鮮明に浮かび上がり、次第にその目尻に涙が滲んできた。彼は静かにその場に立ち尽くし、優しい思い出が胸を満たしていくのを感じながら、そっと目を閉じた。
涙が一筋、彼の頬を伝い落ちた。
それは、彼がいくら冷静沈着であろうとしても、どうしても抑えきれなかった感情だった。
ミーシャとの懐かしい時間が、今でも彼にとって特別なものだと改めて実感した。
そして彼は、ミーシャの姿が見えなくなるまで、心の中で彼女に感謝と謝罪の言葉を繰り返し続けた。
これが、リゲルの選んだ物語なのだから。
思い出は優しいから儚い。
儚いからこそ大切な記憶。
ミーシャの姿が校門から消えた後、ようやくリゲルは踵を返した。その表情には、何か強い決意の様な物が浮かんでいた。
校庭には、スイートピーの花が咲き乱れていた。
部室に一人で戻ってきたリゲルを見て、一同は再び口をつぐんだ。
しかしリゲルは、その雰囲気を意に介さずにまっすぐにラムリーザの所へと向かった。
「おい、お前を殴らせろ」
「なんだよ藪から棒に」
一瞬部室がどよめいた。レフトールなどは、ドラムセットから立ち上がる。
リゲルらしからぬ態度に、ラムリーザは思わず面食らった。ミーシャと会ってきたのはわかるが、それが何故こうなる? まずはロザリーンを気にかけるべきでは?
「お前がロザリーンを勧めたからこうなった」
「何で?! ――いやまあ、そうだよねぇ」
これにはラムリーザも同意だ。確かにそうしていなければ、リゲルはミーシャと無事に再会できていたはずだ。
ラムリーザは、自分が出過ぎた真似をやってしまった自覚があった。
「だがその道を選んだのも俺だ。だからお前も俺を殴れ」
「そんなことが――」
と言いかけたロザリーンを制したのはジャンだ。彼は、やらせておけ、と目で語っていた。
ソニアと、リリス、ユコの三人は、急な展開についていけずに呆然としているだけ、逆にソフィリータはラムリーザを庇うために一歩歩み出る。
それを制したラムリーザは、
「いいよ、それで決着を付けよう」
確かに存在する自戒の念を断ち切ろうと考えた。
「全力で来いよ」
リゲルも同じ気持ちだ。ミーシャに対する申し訳無さを、ここで受け止めるのだ。
部室の真ん中に、少し離れて二人が向き合って立った。
部室は緊張の空気で満たされ、その中で余裕を見せていたのはレフトールだけだった。
「行くぞ!」
「来い!」
先に動いたのはリゲルで、ラムリーザは歯を食いしばった。
リゲルは拳を握らずに、掌をラムリーザの顎に叩き込んだ。掌打という、拳を壊すことの無い、だが強烈な一撃だ。
「あいたっ」
顔を押さえてそむいたのはジャンだ。部室に響いた鈍い音を、まるで自分が受けたような素振りだ。
ラムリーザは上半身を少し反らせ、一歩下がった。身体を打たれるのは慣れていてレフトール相手でも対処できたが、まともに顔面に食らうとダメージは大きい。
それでも踏ん張って倒れることはなく、反撃に転じた。リゲルの望む、全力で。
今度は流石に女の子たちの悲鳴があがった。
リゲルの身体は壁まで飛ばされてしまった。
レフトールを参らせ、パンチングマシーンでチンピラをビビらせた力は並のものではない。
「ラムリーザさん、やり過ぎです!」
リゲルの元に駆け寄ったロザリーンは、ラムリーザに非難の視線を飛ばした。
「いや、これでいいんだ……、かはっ」
口の中を切ったのか、リゲルは少しだけ血を吐き出して立ち上がった。少しふらつくが、すぐにロザリーンが支えた。
ミーシャの心の痛みを考えると、リゲルにとってこの痛みは大したことはない。
「やるじゃねぇか、ただのインテリじゃなかったわけだ」
レフトールはリゲルを見直したのか、ニヤリと笑った。
「思い切ったことをやったな、俺はラムリィに殴られるのは勘弁だがな」
「俺も嫌だ」
ジャンも続いたが、すぐにレフトールに突っ込まれた。
「勝手に自分で仕掛けたくせに」
そのレフトールに、ソフィリータの冷たい声が飛んできた。
リゲルはラムリーザの傍に歩み寄ると、今度は右手を差し出した。ラムリーザもすぐに、その手を取る。
「これからも頼むぞ、領主さんよ」
「こちらこそ宜しく、参謀長さんよ」
そこにジャンとレフトールが加わり、それぞれ右手を重ねた。
「君たちは何?」
ラムリーザが不思議そうに尋ねると、
「こうやったら男同士の友情、青春って気がしないか?」
ジャンは楽しそうに答えた。
「でも君たちは、今は関係ないよね?」
「細けぇところはどうでもいいんだよ」
レフトールも何だか楽しそうで、女性陣だけが、ぽかあんと四人の行動を見つめていた。
リゲルはフッと笑うと、一人身を引いて離れていった。
ロザリーンも「あまり乱暴なことは、やってはいけません」と言い残して、リゲルの後を追った。
そのまま二人は部室から立ち去った。
こうしてリゲルの過去については、一つの決着がついた。
現在と過去の交わりは、未来という新しい舞台に取って代わったのだ。