ヘンカラ峠のへんこぶた
8月15日――
「居ないなぁ……」
「居ませんわねぇ……」
「あっちの茂みはもう探したかしら?」
山道から少し離れた薄暗い森の中、三人の娘が何かを必死に探し回っていた。
この日、ソニアとリリスとユコの三人は、朝からヘンカラ峠という場所に赴いていた。
ヘンカラ峠とは、フォレストピアとポッターズ・ブラフ地方を繋いでいる峠で、ほとんどの人は電車を使ってこの峠を越えるため、基本的に人気は全然無い静かな場所だ。
こんな場所に何故きているのかと言うと、昨日三人の会話の中で「ヘンコブタ」というものが上がり、いろいろと論議しているうちに実際に探して捕まえてみようといった話になったのだ。
ヘンコブタとは、ヘンカラ峠にのみ生息しているという噂の、ブタに似た生物だ。ヘンカラ峠とエンカラ峠が混同されることもあり、エンコブタという名前でも通っている。
だいぶん前に、化学の授業でブタガエンの話を聞いて知ったものだが、本当にヘンコブタをブタジエンに浸しているとそんな物質が本当にできるのか。一滴垂らすと、「エンッ」と音がするのか。好奇心だけがそこに存在していた。
峠までの移動は、ラムリーザの屋敷にある車を借りて行くことにした。電車では峠を登りきって、オーバー・ルックホテルまで行ってしまうのだ。
こんなこともあろうかと、というわけではないが、去年の夏休みに自動車の運転免許を取得していたので何も問題は無かった。
もっとも、リリスとユコはソニアの運転を嫌がったが、ソニアは「あたしの家にある車だから」などと、まるで自分がフォレスター家の一員であるかのような理論を展開して、無理矢理運転主を引き受けるのだった。
駅から線路沿いにしばらく走り、ヘンカラ峠に差し掛かると線路は離れていくが山道をゆらゆらと進んでいく。適度に登り、車を駐車できるスペースがある場所に停めてから、道を離れて付近の捜索が始まったのであった。
峠の道から少し離れた場所は、ちょっとした森になっていて涼しい。ヘンコブタは人気の無い場所に生息しているという噂なので、薄暗くなっている場所を見つけてはこっそりと近づいて行って探してみていた。
ヘンコブタ――、ブタに似ていて身体は薄いピンク色。大きさは小型の犬や、猫と同じぐらいの大きさ。ふわふわとした体毛に覆われていて、まるでぬいぐるみのブタのような感じらしい。「ヘンコ」「エンコ」と鳴き、ブタに似ているがブタにあらず、そんな生物だった。
人によってはゾウに見えるというが、ブタ派とゾウ派の争いが繰り広げられていることでも知られている。ゾウ派はゾウに見えるブタと譲らないし、ブタ派はこの肌の色はブタしかあり得ないと譲らない。
ただしそれらの争いも、ソニアたちにはあまり関係のない話であった。
午前中いっぱいかけて、三人は峠のフォレストピア側の道付近を半分ほど探索し終わっていた。
ヘンカラ峠に出没するという話だが、道の近くに出るのか、山奥に出るのか。前者ならばそのうち見つかるだろうが、後者なら厳しいものがある。それに捕まえてどうするのか? ブタガエンを作ってみるまではよいとして、その後どうするのか? いろいろと疑問は残るが、三人は割と真剣だった。
気がつけば、太陽は真上まで昇っていた。
これまでは木陰が作られていたが、真上から差し込む日差しは木々はあまり遮ってくれない。
三人は、ここで少し休憩して、日が少し傾いて木陰ができるようになってから探索を再開しようということになった。
途中雑貨屋で買ってきたサンドイッチをほおばりながら、疑問をぶつけ合っていた。
「本当にヘンコブタって居るのかしら?」
「ガセネタを授業で教えないと思いますの」
「実際に見た人居るの?」
「そんな話はあまり聞かないから、見つけて飼育して増やせたら、何か賞をもらえるかもしれませんわ」
「凶暴な動物だったらどうするのかしら?」
「ヘンコブタという名前からして、凶暴な感じはしないよ」
「そうですわね、どちらかと言えば『へほ』って感じ?」
「何そのへほ?」
「最弱の称号ですの」
なんだか適当な会話になってきているが、三人の意欲はまだ高かった。
食事を終えて、再び三人は固まって捜索を再開した。バラバラに探さず固まっているところに意味は無い。ただ効率を落としているだけだが、三人はその事実に気がつかないでいた。
峠の頂上の方角を見ると、木々の間から大きな建物が遠くに見えている。
「なんだか立派な建物が有りますわね」
「あれはナントカホテル。あたしあそこでパーティに出たことあるよ」
「私は行った事が無いわ。なんであなたがパーティに出られるのかしら」
「あたしは貴族だけどあんたたちは庶民、頭が高いのよっ」
またしてもソニアは、虚勢を張ってくる。ラムリーザの付録でオーバールック・ホテルのパーティに参加できていただけなのに、あたかも自分が主賓だったような物言いをしてくる。
これにはリリスもユコも、ムッとして言い返した。
「風船エルも庶民の癖に」
「へんこ」
「吸血魔女や呪いの人形よりはマシ。へんこ魔女にへんこ人形」
ソニアはへんこぶたにちなんで、リリスとユコに変なあだ名をつけた。
あまり道から離れると遭難するかもしれないので、必ず道が遠くに少しでも見える場所に絞って探索をしていた。
このような場所は、ほとんど人は通らない。現れるとしたら、ずた袋を被ってナタを持った不気味な大男ぐらいだろう。
「しかしヘンコブタ見つからないねぇ……」
「ユッコに付き合わされて無駄足踏んだだけだったら許さないから。もし見つからなかったら晩御飯奢ってもらうからね」
「何ですの! あなたも乗り気だったじゃないですか! 私だけに責任を押し付けないで下さい!」
「えんこ」
「だいたいどこに居るのよ!」
とうとうソニアとユコは、口論を始めてしまった。この三人で口論が発生するとき、その一方は必ずソニアだ。
「ちょっと静かにしなさい」
一方リリスは落ち着いていた。今回一番真剣なのは、リリスかもしれない。ヘンコブタの何処に惹かれたのかは知らないが……。
「何よ魔女リリス」
「へんこ」
「静かに!」
突然リリスがきつい口調で制したので、思わずソニアは口をつぐむ。
「どうしたんですの?」
「居るわよ、近くに」
「何が?」
「ヘンコブタよ」
リリスが真剣な表情で周囲を伺っているので、ソニアとユコは口論を中断して周囲に聞き耳を立てた。
「へんこ」
そんなに離れていない場所から、かすかに独特な鳴き声が聞こえたような気がした。
「居るわ、近くに居る」
「ほんとに『へんこ』って鳴くのね」
「えんこ」
「でも『えんこ』とも聞こえるよ」
「ヘンコブタともエンコブタとも呼ばれているから、間違いでは無いですの」
そこで三人は、息を潜めて近辺を念入りに探索し始めた。ヘンコブタは逃げ足が早いかもしれないし、こちらを警戒しているかもしれない。それに、ユコは「へほ」と言うが、ひょっとしたら凶暴な動物かもしれない。
周囲は静まり返り、遠くで鳥の鳴き声、そして近くで時折「へんこ、えんこ」と聞こえるだけになった。
三人は念入りに探すと同時に、すぐに逃げ出せるように身構えながら、そろりそろりと移動する。
その時ソニアの目は、大木の根元に薄いピンク色をしたふわふわっぽい物を確認した。
「居たあっ!」
思わず大声を上げるソニア。
「ちょっと叫ばないで、逃げちゃうじゃありませんの!」
ソニアはそのふわふわに駆け寄る。ふわふわは逃げようとするが、のそのそとその動きは鈍い。
「なんだ、へんこぶたってとろい生き物なのね」
リリスの言うとおり、へんこぶたらしき生物はあまり俊敏には動かないようだ。
「やった! へんこぶた捕まえたーっ!」
すぐにソニアに捕まり、両手で抱え上げられて掲げられた。
「へんこっ! えんこーっ」
へんこぶたは鳴きながらジタバタともがくが、その力は弱くソニアにガッチリと捕まれて逃げ出すことはできない。そのうちへんこぶたは諦めたようで、「えーん」とか細い声で鳴き出した。
ソニアはじっくりとへんこぶたを観察してみた。
薄いピンク色なのは情報通り、その表面はふわふわもこもこしていてまるでぬいぐるみの様。重さはさほどなく、ソニアでも軽々と持ち上げられる。丸い手足に、大きな耳。つぶらな瞳が可愛らしい。丸い鼻の辺りが少し大きいのが、ブタと名付けられている所以だろうか。しかしブーブーではなくてへんこ、だからへんこぶたという別種なのだ。
ソニアは、へんこぶたの顔に自分の顔を近づけた。へんこぶたは相変わらず、弱々しくえーんと鳴いている。
「あっ、待って! へんこぶたの鼻!」
ソニアの様子を見て、ユコが慌てたように声をかけてくる。鼻がどうかしたのだろうか?
ソニアとへんこぶたの鼻と鼻が近づいた瞬間、ソニアは「くっさ!」と叫んでへんこぶたを放り投げてしまった。
へんこへんこと鳴きながら、もたもたと逃げようとするのを今度はリリスが捕まえて持ち上げた。へんこぶたは、えーんと鳴いた。
「噂だけど、へんこぶたの鼻は臭いから気をつけてくださいまし」
「早く言ってよ!」
ソニアは食って掛かる。
「それで、どんなにおいがしたのかしら?」
リリスは、へんこぶたの鼻に顔を近づけないようにしながら尋ねた。
「ん~、唾を手のひらとかにつけて、それをこすった後のような臭い?」
「へんこぶたは鼻をなめているのかな?」
「誰かが鼻に噛み付いたんじゃないの? それで唾がついて拭いたら臭くなったとか」
「有毒ブタという別名もあるらしいけど、洗えばしばらくは臭くなくなるんですって」
「えー、こいつ毒があるの?」
ソニアは、リリスの抱えるへんこぶたを覗き込んだ。
へんこぶたは凶暴な動物ではなかった。抱えていると逃げようともがくけど、それほど力があるわけではない。そして弱々しいえーんという鳴き声。まるで子供が泣いているような鳴き声だ。
三人は、へんこぶたを抱えて山道まで戻っていった。
こうしてへんこぶたを見事捕まえたわけだが、これをどうするか?
「誰か飼いなさいよ」
リリスは、へんこぶたの飼育をだれかに押し付けた。
「ソニアが飼ったらいいんですの。ラムリーザ様の屋敷に寄生させてもらっているから、広さだけはあるでしょう?」
「何よ、あたし寄生虫じゃない!」
「ラムリーザに寄生しているくせに、ヤドリギソニア」
「ネクロマンサーリリスは黙ってろ!」
「口論はいいですの、ソニアに飼ってもらいます。これ決定ですの」
とりあえずリリスはジャンのホテルに滞在中だから、ペット飼えるかどうか不明。ユコの家も、どうだかわからない。ここはフォレスター家の庭の一角に、小屋でも作ってもらうしかないだろう。もっともへんこぶたは動きがとろいみたいだから、放し飼いをしていてもそう遠くへすぐには行けないだろう。
用意したかごにへんこぶたを入れて、車に乗り込み帰宅開始。
「帰ったら、まずは鼻を洗うのよ」
「定期的に洗っていたら鼻も臭くないらしいですの」
「なんで臭くなるのよ……」
それでも、近くまで行かないと臭わないので、普通に飼う分には問題無さそうだ。別に、車の中が臭くなるということにはならないようだ。
フォレスター家の屋敷に到着。
リリスとユコなどは、「無事に帰ってこれたー」などと、ソニアの運転を不安視していたことを隠さない。
その一方でソニアなどは、「あたしは上級国民だから、たとえ事故を起こしたとしても捕まらないの」と意味不明なことを抜かしている。
「ほんとにへんこぶたを捕まえてくるとは……」
ラムリーザはその存在を半信半疑だったので、ソニアたちが捕まえてきた本物を見て驚いている。
「私ブタノール買ってきますの」
ユコは、すぐに屋敷から出て行った。ブタノールはどこで売っているのだろうか? 薬局? 工務店? エルム街に行けば、とりあえず手には入りそうだ。
ソニアとリリスは木材を買ってきて、庭の一角に小さな檻を作り始めた。作りながら、出来上がった檻を買ったほうがよかったと気がついたのだが、後の祭りである。
何故かラムリーザは、へんこぶたの鼻を洗う仕事を押し付けられたので、洗剤と庭にある水道をつかって鼻を奇麗に洗うのであった。洗い終わると、確かにへんこぶたの鼻は臭くない。
こうして、フォレスター家にペット(?)が増えたのである。
檻が出来上がった頃、ユコがボトルいっぱいに入った薬品、ブタノールを持ち帰ってきたので、今夜は一晩へんこぶたをそれに浸しておくことになった。
化学の授業で聞いたことが本当ならば、こうすることでへんこぶたとブタノールが化学反応を起こしてブタガエンという化合物が出来上がるはずだ。
ブタノールの入った容器の中で、えーんえーんと鳴きながらバシャバシャともがくへんこぶたをそのままにして、今日の所はこれでおしまい。
一晩つけてブタガエンができるか。それを一滴垂らすと、地面に落ちたときに液体なのに「エンッ」と音がするのか。